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さいたま市 中世館   
             さいたま市 鎌倉時代の館を訪ねて 〜

武士の館と暮らし:

「館」は近世の壮大な城とは異なり、それ以前の小規模な城的施設であり、生活の拠点でもあった。一般的に石垣は使用されず、館の周囲には、空堀と土塁をめぐらせている。その配置の様子は一族の館を中心として、その周囲にいくつもの一族郎党の屋敷がある。

鎌倉街道と与野「与野」を北から南にぬける通称「羽根倉道」は鈴谷、上峰、大久保、志木をへて、鎌倉街道上道に合流していた。この道が上部にも粘土が貼られ、側溝があるなど大変よく整備されていた。当時の与野では市がたち、周辺村々で作られた農産物や生活用品、武具なども取り引きされていた。館はこのような道でつながり、いざ合戦ともなると一族郎党を従えた武士団が土煙を竹で走り抜けた。

落合陣屋

現在、中央区下落合、与野駅前通りに面し、東西の低地から4〜5bの高台にある。ここは、武家政権の創立者源頼朝の臣、安達九郎盛長足立遠元であるというと説も)の陣屋跡と伝えられる。一昔前までは、この土地は「堀ノ内」「打出(砦、支城という意味)」と呼ばれていた。

市指定文化財

写真をクリックすると大きくなります。      アンダーラインのある青または紫色の文字をクリックすると詳細が見られます。

館の立地条件  近くに以下のようなものがある。         @街道   A河川・沼・湖(水上交通) B寺院(板石塔婆・宝きょう印塔) C神社(市神) D市など集落

 

落合陣屋跡
館の規模は約80b四方。館の西側の様子。

屋敷地内の北側に二条の堀があった。内側の空堀跡

外側の堀の場所。

館(領主)は商業の中心であり、農業開発の中心である。領主は、総合商社的役割を果たす。この視点で、落合陣屋の立地条件を見てみる。
 

@街道

鎌倉街道 羽根倉道(この道は鎌倉街道上道中道とを結ぶ重要な街道。武蔵国府から奥州に向かう道である。

現在、与野本町通りとなる。

A河川交通の要所

 旧入間川+鴻沼(江戸時代に新田開発)

B寺院

館の隣りに「東光寺(廃寺、現在、落合霊園」がある。  

落合霊園にある、ずらり並んだ、宝きょう印塔

この近くに力のある人がいた証拠になる。

 
   

C神社

下落合氷川神社 
村の鎮守である。

氷川神社にある、八幡社   源頼義義家が前九年の役で奥州に向かう途中、社前において戦勝を祈り、この与野で徴兵した農兵が笠を付けて合戦に活躍して勝利を得たので、義家は笠間氷川大明神と名付けたと伝えている。

D与野の市の様子(模型)  市場祭文によると、中世には与野郷で市が開かれていたことがわかる。 市は、有力武士の館の周辺・ 寺社の門前で、鎌倉時代では月に3回の三斎市が開かれた。

市で流通した貨幣。
税を銭で納めるようになり、人々は市で物を売って、貨幣にかえていた。

@〜Dの様子からも「落合陣屋」は中世の館の特徴を示している。


足立遠元館跡

足立遠元とは…  足立氏もともと足立郡の支配勢力、★遠元…平治の乱 で活躍するが敗北   平氏に従う    1180年10月、 頼朝のもとにかけつける   本領安堵を受ける     公文所寄人として活躍   孫の遠政、承久の乱の勲功により新補地頭として丹波国佐治荘に赴く   足立氏は、明智光秀に攻められ、降伏するまで 繁栄する

足立遠元館跡
 小名 「古里」にある。館跡は西・北・東を鴨川に囲まれたほぼ正方形の1f内外の地。
  館の北西側の様子。
 館跡は、小島勘太夫の元屋敷だという。「あだち殿の屋敷」と呼ばれていた。小島家は現在、西北方700bの地にある。
  館の立地条件 @街道
 鎌倉街道羽根倉道 の現在
  A河川交通の要所
 旧入間川、鴨川 (鴨川から足立氏館跡をのぞむ) 
B寺院
 真言宗 林光寺
 平安時代前期の開創伝承を持っている。
 
林光寺足立氏墓塔
  C神社
 島根の氷川神社
 足立氏の祖先が勧請したと伝わる。
  C神社
 江戸以前にこの近辺に足立社が数社あり、明治になってこの足立神社に合祀された。 足立氏の本拠であったことを示す。
一方で足立氏の館の位置が、現在の小島氏の住まいだとする説もある。    
   
    現在の小島氏の住まいの様子。 古老の話では、四方に堀をめぐらしていたそうである。  
前にそびえ立つ、クスノキ。
   


足立氏の荘園支配(佐治郷) 兵庫県丹波市青垣町

足立遠元の孫 足立遠政承久の乱に幕府軍の一員として上京し、軍功をあげ、本領足立郡以外の地に丹波国佐治郷など、新恩給与を受けた。

遠元ー遠光ー遠政  足立氏庶流の遠政は、地頭として佐治郷に移り、山垣(青垣町山垣)に居城を築き、子孫は代々ここを本貫として、丹波国内で分布、小和田、三原にも居城を構えるなど発展していく。しかし、明智光秀により、370年もの間続いた山垣城が落城した。足立基則のように足立一族の中にも明智光秀に味方したものもいて本能寺の変に加わったが、基則は自刃し、佐治妙法寺に葬られた。

足立氏を通してさいたま市と関わりの深い、青垣町を訪ねてみた。

丹波市役所青垣支所      職員の足立隆昌さんに、足立氏について話を伺ったり、多くの資料をいただいた。この辺りでは「足立」姓が多く、10人に4人は足立さんである。   足立遠政がこの地に来て、最初に館を構えた、光明寺跡  現在の青垣中学校
校長先生がすばらしい方でした。
  館があったといわれている、中学校の駐車場
この中学校では多くて、1クラス35人中12人が足立さんである。
  館跡からの眺め
領内を一望できます。館跡(中学校)は、この辺りで一番の高台にあります。
光明寺跡は足立氏の上屋敷。歩いて5分程の妙法寺が足立氏の下屋敷跡である、と聞いて訪ねてみた。
裏手から館跡を見た様子   館は、川に沿った、高台に建てられていた。この川は、すぐ近くの佐治川(加古川)とつながっている。河川交通の需要性を感じる。   道路から館跡を見た様子   足立基則の帰依を得て、足立氏の下屋敷に寺を建てたという。   妙法寺
住職の竹内さんにお話を伺い、数々の資料を見せていただいた。
妙法寺入り口の         に造られた古い門 足立氏下屋敷だけあって、周りより高い位置にある。 屋敷跡(寺)は、川に沿って造られていた。河川交通の重要性。 妙法寺内にある足立遠元供養塔
住職の竹内さんに足立氏に関する貴重な資料を見せていただいた。竹内さんは、足立遠元を調べに、何度もさいたま市の大宮に来られたそうだ。研究熱心な方である。
   
全国の足立氏に関する資料
 
丹波に関わる記述
 
関東、武蔵国に関わる記述
館の近くの「まち」の様子を調べてみた。
    佐治川(加古川)館のすぐそばを流れる大きな川。   市場町の様子
 ここに市が開かれていた。ここ佐治は交通の要所であり、様々なものが集まってきたという。昔は、上市場・中市場・下市場という地名があった。左側が佐治川。
  浦町
市場町のちょうど反対側。佐治川の水量も多く、舟運による集荷地であった。昔は、上浦町・下浦町という地名があった。
足立遠政が築いた山城、山垣城跡を訪ねた。館より車で10分ほど。
佐治神社             足立氏上屋敷跡から近い。延喜式神名帳に書かれている歴史ある神社。境内社に八幡神社がある。       山垣城跡   天然の要害で、城からは市場・街道・田園地帯を一望できる。後に足立氏は、光明寺の館からこの城に本拠地を移した。動乱の時代に入ったからであろうか。 山垣の集落は、13戸中12戸が足立さん。  
足立遠政の墓
佐治のまちを歩いてみると…
   
    道標                左いくの という文字が見える。   佐治の町並み          昔ながらの建物が多い。    


畠山重忠館(さいたま市道場)…川本出身の武将、畠山重忠は、この地を支配していた。

道場館跡             道場館のあるこの地は、地元の方に「堀ノ内」と呼ばれている。二本木は大手門のあった所、池田は堀を埋めて田にした所をいう。

 

道場館の北東部にある神社  畠山氏は旧入間川などの河川や鎌倉街道に沿って南下して勢力を張っており、鎌倉街道と入間川が交差する交通の要所、道場付近に進出していた。

 

金剛寺(真言宗)        道場館から300mほどの近さ。  江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記こう」によると       

  円乗院(現在の様子)    与野の円乗院は、畠山重忠の草創で、昔は道場村にあり、慶長年間(1596〜1615年頃現在の位置に移された、と言われている。 現在でも円乗院の檀家は、道場地区の方が多い。


その他の館

「御屋敷山」と「宿の城」

 
御屋敷山
中世城館跡とされる。岩付城主大田氏房の奉行人円阿弥の館では、と考えることもできる。
  「やしき坂」            高低差がかなりある。写真右側に屋敷跡が広がっている。   日枝神社(円阿弥)        御屋敷山の近くにある。天台宗の発展との関係から、平安時代からの神社と考えられる。「万作踊り」が有名である。  

円阿弥の共同墓地にある、板石塔婆

昔は寺院があった。

御屋敷山・宿の城も館の立地条件をかなり満たしている。    
宿の城(地元では「堀ノ内」と呼ばれている)
安保氏に関係する館跡と考えられる。掘割りや空堀のあとが見られた。南北朝期。
 
宿の城の近く 観音寺観音堂
       

 

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