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西南戦争・田原坂     
    西南戦争 激戦地 田原坂(熊本県植木町)を訪ねて 〜

  田原坂の戦い

田原坂は、官軍薩摩軍両方にとって多くの戦死者を出した1877年の西南の役最大の激戦地である。薩摩軍に包囲された熊本城を救援する官軍にとって、田原坂だけが砲隊をすすめる唯一の道だったため、要塞となる坂の頂上をめぐって激戦がくりひろげられた。田原坂での官軍の戦死者は、一日100名にものぼり官軍西南の役戦死者の25%が田原坂で戦死している。平地との比高差はわずか60〜70mと一見平凡に見えるこの坂の攻防を巡って、明治10年3月4日〜3月20日までの17昼夜西南の役最大の激戦「田原坂の戦い」が行われた。

雨は降る降るじんばば濡れる越すに越されぬ田原坂

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明治10年当時の田原坂

田原坂 一の坂         一の坂からふもとを見る。 大砲をころがして熊本城へ行く道はこの道しかない。

鬱蒼とした木々に囲まれた道で険しい勾配

一の坂から二の坂へのぼっていく。道幅は狭い。下からの明治政府の攻撃に対して、上から守る西郷軍。

二の坂付近

比較的勾配が緩やか

三の坂

西側は田原坂頂上に陣を張る薩摩軍からみて正面にせりだした舞台のようになり、丘上からの銃撃に官軍はなすすべがなかった。薩摩軍はこの三の坂に幾重にも陣を重ねていた。 

三の坂をのぼりきった場所にある 田原坂公園

 

坂の上からの眺め
 向こう側の高台に官軍の陣地があり、攻撃された。      

 

三の坂をのぼりきった場所にあった倉庫 砲弾によって無数の跡が付いていた。
 現在それを弾痕の家として復元してある。

西南の役戦没者慰霊之碑
 官軍6923名、薩摩軍7186名の霊を祀っている。
 埼玉県出身者としては、薩摩軍1名、官軍165名の名前が刻まれている。                
田原坂資料館          資料管内部には…

軍服姿・着物姿の薩軍の様子 着物姿の兵士が多かった。

田原坂の戦いは大半は冷たい雨の降り続く中で行われたため、薩摩兵の木綿の着物は水を吸い動きが取れず、わらじは雨と泥の中でプツプツと切れ、先込めのエンピール銃は、粉の火薬が水を吸って不発になってしまう。 

それに対し

官軍の兵士の軍服

官軍は、水に強いラシャの軍服、革の軍靴、雨の中でも発射できる元込めのスナイドル銃を使用していた。

熊本城方面に坂を下ると…

七本柿木台場薩軍墓地

この戦いで戦没した熊本隊や薩軍の墓地

七本官軍墓地

この戦いで戦死した官軍の軍人警察官、約300人を埋葬した墓地である。

官軍と同じように熊本城へと足を進めた…
    熊本城 大小天守閣
 西南戦争3日前に原因不明の出火で焼失した。大天守閣は、地上6階、地下1階。
宇土櫓
 創建当時から残る唯一の多層櫓。地上5階地下1階。当時の熊本城には、このような櫓が多数有り、まさに難攻不落の城であった。
本丸御殿
 藩主の居間・対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていた。
   
本丸御殿 大広間
藩主の居間
 襖も天井も華やかな装飾。

No.15

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