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見沼を訪ねて 〜
見沼通船堀
見沼通船堀とは……享保16年(1731)に設けられた。見沼田んぼの余剰の水を排水する芝川と東西2本の見沼代用水を東西方向に結ぶ約1qの運河。芝川と代用水では3mの水位差があったため、東縁では、2カ所の関(閘門)を設け、水位を調整しながら船を上下させ、芝川と代用水とを結んだ。
平成20年8月27日(水)の「見沼通船堀閘門開閉実演」に行って来ました。その様子です。
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見沼通船堀とひらた船の様子。当時の船はこの2倍の長さであった。 |
東縁二の関の様子
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一の関に角落(かくおとし)板を取り付ける作業。関枠より上流部分の水位が徐々に上昇していく。 |
角落板を取り付けている様子。これを取り付けたり、取り外したりすることで閘門の開閉を行う。 | |||
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比較 | ![]() |
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閘室内(一の関と二の関の間)の水位の比較 |
左の2枚と右の2枚 |
左の2枚の写真と比べ、水位が上昇しているのがわかる。 |
一の関を見るとよくわかる |
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比較 | ![]() |
一の関の反対側から見た様子。 角落板によって、水がさえぎられ閘室内の水位がかなり上昇しているのがわかる。 |
二の関からの船の様子。 水位が上がり、二の関を通過できるようになる。 |
水位の上昇した東縁一の関と二の関の間の様子。 |
同じ時刻の西縁 |
見沼通船堀周辺
鈴木家住宅とは…
1727年、見沼干拓事業に参加。享保16年(1731)、見沼通船堀完成と同時に、幕府から差配役に任じられ八丁堤に通船会所を持っていた。また、各船に対する積荷や船頭の割り振りを行った。鈴木家住宅は、この頃の建物で、船割業務を担っていた役宅であった。
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鈴木家住宅 江戸時代後期の建立といわれている。 |
鈴木家住宅付属建物 米蔵・納屋の様子。 |
鈴木家に接している、見沼通船堀 | 当時の船(ひらた船) 船室(セイジ)がある。 |
船は、見沼代用水路縁辺の河岸で荷物(主に年貢米)を積んで江戸に行き、帰りは肥料・塩・酒などの商品を積んできた。
周辺の様子
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八丁堤 1629年、関東郡代の伊奈忠治が築いた人工の堤。堤の長さが八町(約870m)程あるのでその名が付けられた。面積が1200fに及ぶ広大なた溜井。 |
水神社 見沼通船堀が開通した翌年の1732年6月の創建と伝えられる。人々が水難防止を祈願して祀った。 |
附島氷川女体社 一間社流造り(いっけんしゃながれ) 江戸時代初期に建てられたと伝えられる。 |
見沼の干拓
井沢について……
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井沢弥惣の碑(萬年寺にある) | ||||||
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芝川(見沼代用水から引いた水は水田で使用され、芝川に排水される) 芝川が一番低い位置にある。 |
芝川の上を横切る用水(掛渡井、かけとい) | 加田屋新田の東側高台を流れる、見沼代用水東縁 |
No.13
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